河野十全の真理生活研究所・人間社

河野十全の言葉

河野十全は著書の中で、詩でメッセージを伝えています。
その中のいくつかを紹介していきます。

余計なことは考えない。 その方が気が楽で、矛盾も不安も感じることがなくなる。 すっきりした人生になる。 そのためには、夜は早く寝て、神経を休養させることが大切です。

―「月刊人間・令和4年2月号」より

人づくりの根本は、いかに上手に眠り、賢く起きるかにある。 若さも意欲も皆、昨夜の睡眠の中からである。

―「月刊人間・令和4年3・4月合併号」より

大自然は、音もなく、ただ静かな中に存在しているけれども、 この静けさ、落ち着きという、何もない中に、すべてがある。

―「月刊人間・令和5年2月号」より

心が主になっているのを止めるには、 陰陽の和合によって調節、調和をすることができる。

―「月刊人間・令和4年3・4月合併号」より

大自然世界、万事万物には、それぞれ時期がある。 それに合わせていくだけで繁栄もし、滅亡もする。 時期に合わせるだけで、利益は大きい。

―「月刊人間・令和4年2月号」より

生かされの面の気は、いつも潜在性意識を浄化している。 それにより五官は生き生きとし、ほのかな温かさが生まれる。

―「月刊人間・令和5年1月号」

1日分のエネルギーを使い切ったら止めるし、休むし、気分を転換する。 そして、早く寝る。 生かされている生命の約束に従う。 ここに幸福になる秘密があり、秘訣秘宝がある。 夜は、神のふところに抱かれ眠る。

―「月刊人間令和4年3・4月合併号」より

まず、自己を完成すること、人間として完全な人になること。 世の中において、自分ほど大切なものはない。 自己を立派にすること以上に、必要なことはない。

―「月刊人間・令和4年3・4月合併号」より

いかなる境遇、状況にあろうと、人間は生きているだけで、すでに幸運であり、幸福。
たとえ、病気に苦しんでいようと、生きているだけで、ありがたい。
生かされているだけで、幸せ。

―「月刊人間・令和4年5月号」より

人間生きる上には、あらゆることで、物事が影響するが、 こうした様々な煩雑になることが、いっぺんに片づける方法がある。
それは、夜早く休み、眠くなったら、すぐ寝ることである。
これ以上の秘訣はない。

―「月刊人間・令和4年2月号」より

朝、目が覚めた時には、血液は非常にきれい。
夜、寝ている時よりも、きれいですっきりしている。
血液が薄くなるのは、息・呼吸が深くできないからである。
水をたくさん飲んでも、腹がたえず、肺以上に深い息ができれば、血液は絶対薄くならない。

―「月刊人間・令和2年6月号」より

人間の完成法は、誰が、いつ、どこでも、できるという、自由と容易さと楽しさがなくては、自然とはいえない。
花の努力もなく、魚や鳥の労働でもない、楽しい自然のしくみがある。
その原因、条件が自然な眠りの中にある。

―「月刊人間・令和4年3・4月合併号」より

無意識作用が、人間の体に存在したならば、言葉の数は少なくなっていく。
そのかわり、動き、働きは、実に正確である。

―「月刊人間・平成25年8月号」より

自己を出さなければ、話すことは楽であり、いろいろな面で上手に表現できる。
けれども、自己が出ると無意識の働きが閉ざされてしまう。

―「月刊人間・令和4年5月号」より

もっとしっかりした細胞をつくらねばいけない。
そのためには、天然自然な物を食べ、水を飲むことである。
野菜を食べたり、あっさりすっきりした物を食べればよい。
そうすれば、いかなる時も働いてくれる。

―「月刊人間・令和4年2月号」より

人間は、空気を直接取り入れるので、自然の花が美しいように、空気を充分吸うことによって、人間性も美しくなる。
香り高く、味の豊かな人間性が、果物がおいしいように、空気によって自然に実っていく。

―「月刊人間・令和4年9・10月合併号」より

三食の食事は、習慣で食べている傾向がある。
三時のおやつも同じである。
体にとって、必要な時には食べ、必要ない時は食べない方がよい。
また、ある程度食べて、空腹感がおさまったら、その時点でストップすべき。
それ以上は、無駄というより、負担になる。

―「月刊人間・令和4年3・4月合併号」より

心と自意識の違い
心と自意識は、同じように見えるが違っている。
心は、だんだん成長するに従って、自然作用でできてきたものである。
自然作用によって、有の世界から、いろいろ取り入れたもの。
また、目に見えない無の世界からできたものがあり、この二つによって、心ができている。
心ができるに従って、いろいろな意志ができる。
その意志から分裂したものが、自己意識である。
そこから、くせも出てくる

―「月刊人間・令和3年9・10月合併号」より

腹で呼吸
腹で固有ができるようになると、心臓に負担がかからなくなってくる。
また、圧力は、この腹での呼吸をしていれば、どんどん解消する。
圧力は負担であるが、人間は呪力を受けている。
その重力によって、圧力ができる。
自分の感情的な面からつくる圧力も多い。
圧力にも、さまざまな種類がある。
そういう圧力を、心臓で負担していたのではやりきれない。
これを、腹が大きく呼吸をしさえすれば、ガスが楽に出てくる。
心臓とか胃に負担をかけているから、ガスが自然に出なくなってきて、内臓の動きが鈍ってしまう。
腹で息呼吸するのと、胸に負担をかけるのとでは、生命力が違ってくる。
腹で呼吸していれば、神経の刺激はそれほどでない。

―「月刊人間・平成28年8月号」より

半意識の働き
寝ている時、体の疲れがあるので、半意識の時ほど、自然作用が起こりやすい。
それは、半意識の時に、体内にある不純物を、自然作用が全部ガスに切り替えて出てくれる。
体内の不要なものを全部外に出してから、アクビになってくるなどして、目が覚めてくる。
本来、目が覚める前にアクビが出るのが順序。
けれども、大きなガスが出れば、目が覚め気分がよくなってくる。

―「月刊人間・令和3年9・10月合併号」より

ただ居ても楽しい
生きているということは、常に楽しく喜びが伴っている。
この楽しさは、生かされている中にある、いつも楽しい状態である。
その楽しさを受ける力が、この肉体にある。
いつまでも、どこまでも、ただ居ても楽しい。
それが、自然から与えられた恩恵である。

―「月刊人間・令和4年11月号」より

人類の平和、幸福は真理生活による
万物は、1年1年、年輪を加えて膨らんでいく、成長していく。
人間も年とともに、成長していく。
それが生活というものであり、真理生活なのである。
その真理生活とは、ひと口に言えば、「過ちの元になることはするな」ということ。
そういう生活をすれば、無駄をしなくなる、損をしなくなる。
そして賢い人、立派な人になる。
真理の教えは、今まで人間の気づかなかったことである。
それを受け入れ、受け継いで、人間世界を啓発し、問題解決に役立てば、戦争をするという野蛮な行為、不合理なことなど、していられない人間が増えてくる。
人間が賢明にならなければ、戦争という悪は、なくならない。
人類の平和、幸福は真理生活によるものである。

―「月刊人間・平成19年8月号」より

災難、不幸が寄り付かない体に 
現代の社会は、どこにどう災難が待ち構えているか分からない。
そのため、がんばって歩け、気をつけて歩け、というのではない。
気の漲っている体には、災難は寄り付かない、不幸が寄り付かない。
気が避けてくれる、という不思議な力が、この体が持っているということ。
うかうか、ぼんやり、ふらふらしていては、いけない
これは、緊張せよというのではなく、また気をつけよというのでもない。
気は生命である。命がこの体に漲っているかどうかで、人こそ神かどうかになる。
たった、それだけのことである。

―「月刊人間 平成19年1月号」より

無意識からつくられた気は手にいく
無意識が発達するほど、無意識の中に、整然とした本来の感覚ができてくる。
これが直ちに、手の先に流れてゆく
そのため、物を作ると、そこに言うに言われぬ働きができてくる。
手の触覚は、五官でもできるけれども、無条件に心を労せずできるのは、無意識の援助が必要になってくる。
無意識からつくられた気は、手に流れていく。
また、足に流れていく。そして、体全体に行き渡り、体が整ってくる。
それに従って勘が行き渡る。
今日、この根本が失われつつある。

―「月刊人間・令和3年12月号」より

長い間、積み重ねて結果が出てくる場合と、ちょっとしたことで、成り立ってきてしまうこともある。
自然に積み重ねられてきた悪い結果は、これは反省しなければならない。
自己の性格は、どのようにして作られてきたか、その因縁は長いもの、とても自己の改善などはできるものではない。
一大決心をして悪い職場があれば、変えることがよい。
悪い友達との交際は止める。
悪習慣や悪い所へ行くことを止める。
悪いことから、一切離れることである。
それができれば、救われる。
自分の愚かさを直すことは、容易なことではない。
日にちをかけて、努力することである。
早寝早起き、健康な体をつくり、気を充実させることである。

―「月刊人間・平成19年1月号」より

人間には、絶対力というすばらしい力がある。
そのことが分かれば、また開発できた人は、人を導く資格者となれる。

―「月刊人間・令和3年5月号」より

人間は自由がある、これが人間の価値である。
何でもできる、何でも分かる。
これを理解し、発揮しなければならない。
だれもが、自己に困っている。
今の人間の自由は、わがまま勝手、欲がありすぎる。
我が強いからである。自ら自由を失っている。

―「月刊人間・令和3年5月号」より

人間の災難、不安、宿命のような心を、どうすれば改善できるか。
それは、生かされており、生きているという、この二つの力をつないでおけばよい。
他力と自力のつながりで、宇宙と我と一体の姿になればよい

―「月刊人間・平成29年8月号」より

病気の時は、肉体そのものが病んでいるので、精神はゼロでなくてはいけない。
病気の時くらい、開放的にそして素直になることである。

―「月刊人間・平成29年8月号」より

宇宙間に存在する森羅万象は、みな美しく、巧妙至極の働きを持っている。
また、価値を持っている。
そうしたものが人間の肉体に結晶している。
肉体を本当に鍛錬すれば、すべて肉体で感じ表現できる。
肉体ほど、すばらしい存在はない。

―「月刊人間・令和3年5月号」より

宇宙間にあるものは、すべて真理原則的に存在し、生活するならば、その生命の原則において、保護され、保障される。
これほど確かなことはない。

―「月刊人間・令和3年6月号」より

原因がすでに発生し、存在している。
だから、原因を選べ、縁を選べ、道を選べ、仕事を選べ、友を選べ。
絶対に愚かなことをしてはいけない。

―「月刊人間・平成19年1月号」より

眠るということや、ただ生きていることが、楽しく感じないようでは、真の人間とは言えない。

―「人間全書・宇宙とともに生きる人づくり人間完成法」より

心より、他力と自力がつながっていないので、新しい考え方も静寂、空寂も味わうことができない。
ただ自力の中で、調節・調和してゆこうとしている。
そうすると、気が短くなり、イライラする。
そのため、気がつくことも、自己の都合でよい所だけしか、気がつかない。
自己本位なのである。

―「月刊人間・平成29年8月号」より

よく人のためというが、人のためというのは、第二の問題であり、まず自分のためでなければならない。
自分の存在ができるような行いをしなければ、人のためにならない。
自分はどうでもよく、人のためというのは、欠けているものがあるということである

―「月刊人間 令和3年8月号」より

人は幸福を求めようとして、欲望をつのらせる。
その自我意識さえなければ、幸せになれる。
悟りというものは、肉体にあり、決して意識的なものではない。
筋のよい人は、病気に対して、意識で抵抗しない。
何カ月かかろうが、意識はそれに任せきるになるから、苦痛がない。

―「月刊人間・平成13年3・4月合併号」より

若い時には、運動神経がものを言うし、年をとれば、気がものを言う。
また、勘というものは、気でつくられる。
体力や気力がなくても、感覚というものは、生命の気の中から出てくるもので、何にも負担がかからない。
気というものは、便利なものである。

―「月刊人間・平成18年9・10月合併号」より

意識がいくら多くを望んでも、身近なことに善処しなければ、運命は成り立たない。

―「月刊人間・平成26年3・4月合併号」より

真理は、対立・競争などというものはない。

―「月刊人間・平成26年6月号」より

無意識作用が人間の体に存在したならば、言葉の数は少なくなってくる。
その代わり、動きと働きは、実に正確である。
言葉の少ない人、動き働きの正確なびんしょうな人、それは無意識の発達した人。

―「月刊人間・平成27年8月号」より

体に気が養われれば、いっさいの判断力が出てくる。
生きているのが、楽しくなってくる。
楽しみができれば、つまらないと思うことにも、喜びは生まれてくる。

―「月刊人間・平成28年8月号」より

平凡の中に生きていることが、いかに楽しいことか。

―「月刊人間・平成29年8月号」より

自然は、所の上に現われる以前に、時の上に現われる
四季という、時の変化が姿となって現われる。
その時という、自然の根本に、自己を合わせてゆく。
これが自然生活法の秘訣である

―「月刊人間・平成29年9・10月合併号」より

自然の中に絶対の善、絶体の美、絶体の愛がある。
自然の真から得るものは、淡いようで強い。
人間は、自然と存在している。
存在そのものが、楽しいのである。
だから、ただいても楽しい。
その境地まで、体で分かっていかないと、生まれてきた甲斐がない。
意義をなさない、価値がない、存在の原理原則。

―「月刊人間・令和3年2月号」より

我らは、いくつになっても宇宙の子であり、一切を映しとることができる、宇宙身なのである。
肉体は、何でも映しとることができる。
これは、自然作用によって高まってゆく。

―「月刊人間・令和3年3・4月合併号」より

結婚により、人生が成就し、完全になる。 人間は良い結婚をすれば、ただ存在し合うだけで、大きな利益と効果を得る。

―「月刊人間・令和3年5月号」より

心が主となり、神経が伴っているから、いつもイライラし、病的になってくる。 非常に危険である。 それを直すには、静けさの中にいるとか、眠ることによって神経を正常にする。

―「月刊人間・令和3年6月号」より

毎日の夜こそ、宇宙の大気がそのまま我が力となり、その力が、今日一日の働きのエネルギーに変化する、貴重な時。
夜早く寝て、熟睡できた朝の目覚めは、どれほど、身も心も澄み渡っているか。
悟りとは、目覚めること。

―「月刊人間・令和4年1月号」より

地球が同じように回転していても、同じ軌道の上を走っていない。
太陽とともに、軌道を変えている。
この地球上において人間の生命は、一日一輪と向上し、発展し、変化・発達している。

―「月刊人間・令和4年1月号」より

夜遊ぶ人に、よい運命はこない。
夜は寝るもの、眠るべき大切な時。

―「月刊人間・令和4年3・4月合併号」より

過去は、もう帰らない。
すべては、これから。

―「月刊人間・令和4年3・4月合併号」より

平易に話す真理生活法


夜8時過ぎまでテレビを見ない!


「夜8時過ぎまでテレビを見ることは悪い」と言えば、「そんなことが悪いことですか」と言われるでしょう。
けれども、夜の8時過ぎまでテレビを見ていたら、どんなによいテレビ番組を見ても、目の神経を強い光線で刺激し痛めてしまいます。
夜の神経は、安らかに休む時間です。
昼間1日、目を使い、疲れ果てた神経を夜まで使うことが、どれだけ肉体の生理作用に悪いことでしょうか。
夜の7時でもよいわけではありません。
それが、8時、9時、10時と、遅くなればなるほど、その弊害が強くなってしまいます。

また、1歳、2歳、3歳、4歳、5歳、6歳というように、まだ植物なら目が柔らかく、優しく、固まっていない時期に、 テレビのような強い刺激を与えると、精神、意識、心までも痛めてしまいます。
テレビ精神などと言うとおかしいですが、テレビで心を作ってしまうと、とんでもない人間になってしまいます。

子どもには子どもの精神があり、小学生、中学生、高校生、大学生と、だんだん、その時期にふさわしい意識ができていけばよいのですが、 12、3歳で大人と同じようなことをしてしまいます。
それは、子どもが大人の恋愛小説を読む、人生の葛藤を描いたドラマを見るなど、大人と一緒に見ているうちに、子どもの潜在性意識に先入観念という意識が、 体の中にできてしまうからです。
生理的にまだ未熟な子どもが、意識的には大人と同じような、悪い社会の風潮をみな覚え込んでしまうのです。

高校生、大学生の頃には、そういう子どもの頃に覚えてしまったものが、みな芽を出して、そういう行動を起こしてしまい、恐ろしい社会、世界となってしまいます。
親もこれをどうすることもできないのです。
親が自分で自分をどうすることもできないので、子どもの間違いに気づいても、言いようがないのです。

こうしたことを解決し、一人一人の幸福、健康、賢明への道というのは、誰が、いつ、どこでも、できるような、簡単、容易な方法でなければならないのです。
それは、夜早くしっかり眠ることが、第一です。
次は、自然に目覚めた寝床で真呼吸をすることです。
そうすれば、解決しようとしなくても解決していくのです。

人生を本当に考えてみれば


人間は、すばらしい存在で、万物の霊長です。 人間が一切の世界を支配し、この宇宙間に人間のみが、自分の意思で、自由勝手に生きて行くことができます。
そのため、人間は、「平等・自由だ」などと言いながら、人のことは干渉するけれども、自分の至らないことなどは考えもしないのです。 わがまま勝手に右往左往、言いたい放題なことを言っています。
そうした人間社会は、難しくなってしまいます。
そのため、誰もがお金さえあればと、その時、その時を気で紛らせ、慰安を求め、その日暮らしのような、心なしの生活を続けています。

お金があれば何とかなる、というのは、表面的なことで、人生を本当に考えてみれば、第一に問題になるのは、自分の健康です。
次に、自分の性格です。
人間は、案外、自分のことを考えることをしません。
自分を苦しめているのは、自分であることに、気づいている人が少ないのです。
自分の心を自分がどうすることもできず、自分で自分を悩まし、苦しめています。
自分が自分を不幸にしていることが多いのです。

宇宙の真理によって体を躾ける


心の拠り所を求めて、仏教書などが読まれています。
こうした本を読んで、知識は得ることができますが、それは、頭で覚えただけで、幸福にはなりません。
学問知識という、意識では、ものの道理は分かりますが、それは、自分の力とはならず、安心とはなりません。

昔は、躾というものがあり、体でものを覚えていました。
体に躾けられていますから、心がわがまま勝手に動かないのです。
世の中に、真面目、忠実、当てになる人を求めるならば、体に躾けられた人です。
しかし、そういう人がいなくなっています。
これからの日本はどうなるのでしょうか。
結局、物に頼る以外はなくなり、ますます物質が重要で、便利なもの、大切なものになっていきます。

しかし、人間が確かな人間とならねば、いくら物があっても、人間が幸福になるというわけにはいかないのです。
そのためには、目先の問題のみに追われず、根本、絶対世界の認識、自覚をすることです。
宇宙の真理、万物の原則によって、体を躾けていけば、人間は健康になり、病気をしない、人格もよくなるし、賢明健全になるのです。

新型コロナウイルスを契機に


新型コロナウイルスをきっかけにして、今までの自分の生活を見直し、新たな自分を見出していただきたいと思います。
生活のリズムを自然なリズムにすることで、どれほど身心の状態が蘇ってくるかを試していただきたいのです。

新型コロナウイルスには、まだ治療薬やワクチンができていないので、体の免疫力をつけるため、睡眠や運動、食事に注意するようになったようです。
薬に頼るより、まずは、自分自身の体の抵抗力を高め、その上での薬です。
何よりもまず、体に、自然の力をつけていくことです。
そうすれば、体の智恵は、今どうすればよいかを教えてくれます。

いかなる場合でも、落ち着くことが大事になります。
落ち着きから、体の智恵は出てきます。
その落ち着きは、静かな場所で養っています。
夜の静けさの中で、その落ち着きを得ています。
また、夜の静寂の中で、生命を養生しています。
現代は、この夜の静寂さを忘れてしまっています。
睡眠の力は、すべての土台となります。

また、昼間も、できるだけ静かな場所へ行き、過ごすこともよいのです。
気養生(きようじょう)のつもりで、空気のよいところに出かけてみるのも、楽しいものです。
山に入ると、静けさを味わうことができ、何よりも気持ちが落ち着きます。
心を静め、休めることができます。
自然に接すれば、本当の落ち着きを取り戻すことができます。

まず、いつもより1時間早く寝てみてください。
夜の8時、9時には寝床に入るようになれば、しめたもの。
すべてが変わってきます。
夜更かしは禁物です。
はじめは、そんなことはできないと思うかもしれません。
しかし、それが自然の摂理なので、慣れてしまえば楽なものです。
昼間の疲れのままに、寝てしまえばよいのです。
自然な眠りも楽しいのです。
それは意識できないので、習慣になるまで、しばらくは辛抱が必要です。
自然は嘘をつきません。
早く寝て、自然のリズムに帰れば、この体からは、元気が湧いてきます。
それは、やる気にもなり、この落ち着きにもなってきます。
体も柔らかくなり、気持ちも円満になっていきます。
自然はよいことずくめなのです。
それを楽しみたいものです。
くれぐれも、感染症が終息したとしても、早寝の自然生活を続けてください。
せっかく、体に自然の力がつき、元気になろうとしているのですから。

最後に、河野十全の「気の養生訓」から、自然の大切さについての言葉を紹介します。

自然の一部になりきる


努力、忍耐、辛抱、などという緊張を緩めて、大自然の中にいると、何の圧力もなくなって、気が落ち着く。
落ち着きは、何よりの人間性開発法であり、百薬にも勝る身心健康法である。
心が落ち着き、豊かになると、肉体が柔らかく自然になり、円満な人格になる。
心を楽にするということは、はじめはなかなか容易ではないが、これが楽にできるようになれば、心は肉体の栄養になり、円満な相好(そうごう)の良い人物となる。
そのために、静かな自然美を楽しむなら、裏山でも川端でもよい。
盛りだくさんの予定など捨てて、のんびりと大自然の一部になりきる。
大自然の懐に抱かれてこそ、疲れ傷ついた人間が癒される。
そして、時々は朝早く起きて、郊外へ行こう。
大都会に住んでいても、一時間も電車に乗れば、まだ自然のままの世界がいくらでもある。
遠出して静かな景勝地に遊びに行けば、山あり谷あり町あり川あり。

気養生


静かな景勝地では、新鮮な空気だけではなく、大地にも、木々にも気が含まれている。
緑豊かな木々に囲まれた自然と触れ合うことで、精神や肉体に気が感応して、気が通じてくるから、気分が晴れてくる。
そもそも、私たち人間の生命も気である。
動物や植物のすべての生命も気である。
人間や動植物をかくあらしめているいわば生命の根源、それが気であり、創造し活動するものは、ことごとく気の結晶体である。

生きている私たち

「気の幸福論」より

私たちは、一人ひとりが、数多くの同じ人間たちとともに暮らしている。
周囲は人間でいっぱいだ。
しかし、誰よりもまず、自分自身を眺め、見つめることから始めたい。
人間が、人間であることを知る最初の手がかりは、肉体である。
私たちは、今ここに自己の肉体が現実に存在することを確かめ、認めることにより、人間であることを知る。

心臓が動いている。
息をする。吸って、そして吐く。
暑い、あるいは寒い。
小鳥のさえずりが耳に入る。快い。
咲いている花を見て、ああ美しいと思う。
疑いもなく、私たちは生きている。
これが生命というものだ。
私たちは生きている。
一人ひとりが生命というものを持っている。

では、私たちは、どうやって生命を保っているのだろうか。
目に見えないが、空気というものを呼吸する。
水を飲む。
地から生まれた作物を食べる。
山から採ってきた木や石で造った家に住む。
獣の毛や毛皮から作られた衣服をまとって暮らす。
そうして言うまでもなく、直接手に触れたものではないが、太陽の恩恵をこうむっている。
私たちは、まさしく自然の中に生きている。
私たちを取り巻くものは、すべて自然である。

自然のなかに、人間が存在している。
自然のなかに、万物が存在している。
人間は自然によって生かされている。
万物も自然によって生かされている。
人間は自然にのみならず、自然の中にある万物がなければ、生きてゆくことができない。
人間は、まぎれもなく自然の一部である。
人間は自然の一部として、常に自然と共にある。
さかのぼって考えてみれば、人間は自然によってつくられたものである。
万物も自然によってつくられたものである。
万物を別の言葉でいえば、森羅万象。
人間以外のすべてのものと考えたが、自然の目から見れば、人間もまた、その森羅万象の中に含まれるべきものである。

人間はいろいろな機械を考え出し、造り出した。 その結果、人間がいなくても計算ができ、物が生産できるようになった。
春夏秋冬のような自然とのつながりが薄れ、一年に一度しかできないものは遠ざけられて、従来のエネルギーを何百倍にも何千倍にもして、もともと自然の中にはなかったものを、大量に産み出している。
科学が、いかに発達しても、あくまでも人間が主であって、人間が作った物質や文化は、従であるはずだった。
今やその主客が転倒したとしか思われない現象が、至るところで見られる。
このような社会で、人間は一応恵まれた生活を送ることができるから、まるで人間性など、もう不要になったかのごとき感がある。
遠回りで、長い時間を要することであるが、子どもたちに、正しい躾をして、魂をうえつけ、将来における人間性の回復を図りたい。

やりがい 張り合い 生きがい

「気の生きがい探求」より

人間は、心から「人生はすばらしい」と言えるのは、どんな時だろう。
人間は、あまりにも頭を使いすぎて、頭にばかり己を奪われ、大切な肉体というものがあることを、忘れてはいないだろうか。
毎日、あくせく働いているばかりが人生ではあるまい。
職業人として、自らの仕事に熱中していると、それなりにやりがいというものは感じている。
毎朝、定期券を持って家を出て、職場に行き、一日の仕事が終わると、また、電車に乗り帰ってゆく。
こうした単調な日々に、ふと「こんなことで、よいのだろうか」「こんなに身を粉にして働いて、職場のためだ、世の中のためだとは言うが、果たして、自分の生き方はこれでよいのだろうか」と、誰でも何度か思ったり考えたりしていることであろう。

間違えてならないことは、己というものを無にして、職場で働くのは、やりがい、張り合いというもので、いわば生活の手段であり、生きてゆく手段の問題であることだ。
このやりがいは、人間の命が本質的に生きてゆく生きがいとは、根本的に違う。
人間が、本当に生きがいを感じるためには、単に社会生活の手段として生きるばかりではなく、人間の命の領域である。
つまり、宇宙大自然そのものを身近に引き寄せて、その中に自分を住まわせることである。
人間の本当の生きがいというものは、決して職場で書類や機械相手に働いている時ではない。
野原の草の上や海辺の砂の上に寝転んで、手足を伸ばした折、また、心地よい朝の目覚めの際など、体と宇宙が一体となった時に、心から感ずるものである。
誰もが、たまには筋肉をのびのびさせたいこともあろうし、砂の上でごろりと寝たいだろう。
片足を気持ちよく伸ばして、手枕をしてじっとしたい時に、したいことをすることだ。
「人生はすばらしい、美しい」と全身で言えるのは、海辺や青芝や寝床の上で、宇宙と一体感を持った時だ。
みんなが、このことに気が付いてほしいのである。

自分の体を確かめる

「寝禅入門・確かな人間となるためには」より

毎朝起きた時に、自分の体を確かめてみます。
自分の体は完全であるか、達者であるか、どこが悪いか。
朝目が覚めたら、まず自分の体を診断します。
これが、誰もが忘れている一番大切なことです。
どうすれば確かめができるか。
目が覚めた時に、今まで眠っていたという自己を確かめてみます。
自分の体が正確に働いているか、お医者さんにも分からないのです。
けれども、自分が自分を診察してみれば、よく分かります。
体がしっかりしているか、意識が、心が、精神が、はっきりしているか、まずそれを確かめるのです。

自己のための自己

「月刊人間2019年3・4月合併号・当然の不思議と常識の中の矛盾」より

この自己こそ、自己のための自己。
これを生かさないと、自己がゼロになってしまいます。
何のために他で働いて、自己を養い、家族を養っているのか。
目的はそこにあります。
それからです。
無給で費やす余暇、これこそ人生の目的。
余暇という考え方が、大間違いなのです。
人間は、自己の肉体の価値、働きを忘れ、肉体の外にある物資やお金、名誉を、ありがたいと思っています。
それは便利ですが、ありがたいとか、尊いとかというものではありません。
手段にはなりますが、目的物ではないのです。
人間は生命の器、肉体が元手、資本です。
この元利を、どれだけの内容を積み増やし、高度化していくか。
そうところに、人生の価値、生き甲斐があるのです。

今日の充実

「自然生活法・自然生活法の道」より

生まれて死ぬまでの、人生百年。
今日から明日へ、明日から明後日へと、一日一日、歩みを続けるうちに、みな今日の体験が、明日の力になってゆくのです。
今日の未熟は、明日の充実。
今日の充実は、明日の発展。
不安どころか、愉快で愉快で、たまらない人生、楽しさの連続です。

人間、賢明に生きてゆきたいものです。
つまらないことに、心を労しないことです。
生きてゆこう、という焦りを捨てましょう。
間違いだらけ、誤りだらけの社会に、幻惑されてはいけません。
毎日、やるべき勉強や仕事に集中することです。
何事でも一生懸命、取り組んでいれば、つまらない考えなど起きてきません。
また、不安や矛盾を感ずることもありません。
すっきりした人生を送りたいものです。

笑えば楽しくなれる肉体生理

「気で楽しく生きる」より

「宇宙に生かされ、生きる毎日が楽しい」と言っても、「人生は苦だ」という人には、試しに「アッハッハ」と笑ってみることを、是非お勧めします。
「アッハッハ」と笑ってみれば、腹の底から息が全部出せます。
何となくすっきりとし、気分爽快(そうかい)で愉快になるはずです。
次に、すすり泣きを真似てみましょう。
こちらは息を吸い込むばかりで、果ては胸が苦しくなり、妙に寂しく、悲しくなります。
笑えば、胸の内圧が下がり、肩も垂れ、上半身がリラックスすると同時に、七福神の布袋和尚(ほていおしょう)のように、下腹が突き出て、ヘソが天井に向き、腰がグッと締まるという効果が発揮されます。
反対に、泣けば肩に力が入り、腹や腰は虚脱します。
なるほど、笑いは「百薬の王」、人生の妙薬です。
人間の感情には、喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、驚き、さらに憎悪や恍惚(こうこつ)など、いくつも種類があります。
このうち最も望ましいものは、喜びと楽しみで、そのポジティブな感情の主な表現が、この笑いの表情です。
我々人間は、人生の中で、笑いを求め、他人にも笑顔を向け、他人と笑いを共有しようとします。
感情を表すあらゆる表情の中で、笑いやほほえみは、最も頻度(ひんど)の高いものといえます。
人間誰もが、安心感を得て、喜と楽のポジティブな感情の中で生きられる時、幸せを感じます。
そういう時には、自然と笑いがこぼれ出るもの。
しかし、現実の生活では、なかなかそうもいかず、面白くないことや、もめ事が尽きず、ネガティブな感情にとらわれることが多いものです。
人間が健康に生きていくためには、ネガティブな状態に落ち込んだ時に、そこにいかにして、ポジティブな感情をふりそそぐことができるか、ということが重要です。
笑いはその役目を果たしてくれます。
泣きたい時、しんどい時こそ、笑いを忘れてはいけないと言われているのは、なぜでしょうか。
笑ってしまうと、へばりついていた何か重たいものが落ちてしまって、本来の自己が現われ、エネルギーもわいて出てくるからです。
笑いというのは、人間が平衡(へいこう)状態を崩した時に、それを元に戻そうとするエネルギーというわけです。

美しい季節

「人間全書・宇宙とともに生きる人づくり人間完成法」より

自然の世界に四季があるように、人間の生涯にも、また同じように四つの季節があります。
今、仮に25歳までを春とするならば、50歳までを夏、75歳までが秋、そして、それ以後がいわば冬の季節にたとえられます。
四つの季節をすべて経なければ、一年が終わらないように、 人間もまた、人生の四季をことごとく経て、初めて人間として完成されるのです。
これは、肉体のみに限って言っているのではありません。
かくして、人間的な完成、人間成就のためには、どうしても長寿が必要であり、長寿のためには、どうしても健康が必要、ということになります。
そのためには、なるべく早い時期に、自己の生活を自然に即した方法に切り換えることです。
すなわち、「生きる」生き方から、「生かされ」生きる生き方に乗り換えることです。
それに成功すれば、あなたの人生はいつも健康。
幸福にも恵まれ、その行く先はまっすぐ長寿の都です。
人生の真の楽しさは、晩年にあり、季節にたとえれば、冬にあたる75歳を過ぎてからです。
まだ、秋のうち、ましてや夏のうちから、自分から老け込んでしまってはいけません。
もうトシだからだめだ、などと、ぼやきながら暮らすのは、自ら墓穴を掘るたとえどおり、せっかくの寿命を縮めてしまうことになります。
そのくせ、そういう人にかぎって、いつまで経っても、ただ生きよう、生きようという気だけが先に立つから、もう先が短いとか、何とか言いながら、ついつい無理をしてしまいます。
いつまでも心ばかり使って、体をくつろがせる暇がないのです。
人間は、本当は、年をとるほど頭も冴え、感情や欲望も浄化され、美しくなるものです。
冬の季節は、人生のうちで最も美しく、味のある時期なのです。
その時期を待たずに終わってしまうのは、ばかげています。
終わる間際になって、いくら嘆いてみても、もう取り返しはつきません。
長寿のもとは、健康です。
健康を保つための生き方は、若いうちから始めるほどよいのですが、いくつになってからでも、遅すぎるということはないのです。
気がついたら、すぐに始めることです。

太陽とともに歩み、よき運命をつかむ

「月刊人間 №.259」より

体に気が充実している人、気が働く、気がきく、気がつく、というような人は、すべてが運命の機会です。
あらゆる時に、機会をみつけて、自己を運ぶ気持ちのよい人、そういう人が、平凡な社会をどんどん駆け抜けてゆくのです。
頭がよいとか、利口だとか、ということもありますが、そういう条件よりも、運命をよくする気が体にあるかないか、ということが、好運の条件なのです。
気は、宇宙いっぱいに満ちています。漲りわたっている宇宙大自然は、気の世界。
人間の命というものも気であり、肉体は気のかたまりです。
気を得るには、太陽とともに歩み、太陽に道案内をしてもらえばいいのです。
太陽というのは、昼の世界です。陽とともに目覚めて、太陽とともに働く。
陽が沈んだら、体を休めて、大地とともに眠れば、宇宙のリズムが身についてきます。
夜遅くまで遊び歩いていたり、身心を使っていたりすれば、雑念妄想が増えるだけ。
生命力が失われてしまいます。
太陽に守られて生きれば、肉体はどんどん気を力に変えてくれるのです。

自然と人間と社会

「感覚人生のすすめ」より

人間社会において、つまらないことで動き回ることほど、愚かなことはありません。
すべてを理解してゆく力があれば、見たもの聞いたもの、よい事でも悪い事でも、みな材料になります。
その識別ができないうちは、つまらないことには触れない方がよいです。
つまらない社会と接するよりも、大自然の気に触れることが、どれほど人生に役に立つか分かりません。
そこには大きな力があります。大自然の中に生きていれば、つまらない欲はなくなってしまいます。
そして、肉体的にも精神的にも、すばらしい健康が訪れてきます。
生かされており、生きているという縦の線、自然と人間のつながり。
自然の気を肉体に受けて、力とすれば、これが意識をコントロールしてくれます。
そうなると、人間のつくった社会もすばらしく、便利なものとなります。
こうした社会の中から、役に立つ物事を発見するのも楽しいものです。
これも、体が自然の気を受けて、よいように成り立っているということに条件があります。
すべてを体が知り、体で行うのです。

簡単が一番

「月刊人間2018年8月号・自然生活法」より

「よく考えろ」などと、人間は、あまりにも考え過ぎる傾向があるようです。
思い過ぎ、考え過ぎて、物事を難しく、複雑に膨らませて、かえって悪い結果を招くことが、往々にしてあります。
簡単、単純が一番いいのです。
もっと単純にしていれば、必要なことだけに気がつくようになりますから、生活が簡単になります。
患いや悩みがなくなります。
自然の中に自己があると、自然に自己が乗って生きることができます。
そうなると、自己の思うことが、不思議と成就するようになります。
不思議が当然となってゆくのです。
そして、人を動かすこともできるのです。
この自然作用の利用、自然に乗る、ということが大切です。
ついている人、やること為すことがみな、とんとん拍子にゆく人、などというのは、自然に乗っている人のことです。
そうして、常に正しく物事を運んでいる人は、自然に成功してゆくのです。

幸福というもの

「気の幸福論」より

人間が生きるにあたって、その最も大きな推進力となるものは、「楽しさ」である。
楽しさがあり、また、事実、楽しいからこそ、日常のはんざつな生活もいっこうに気にならない。
たとえ、不快な出来事があっても、それを超えるはるかに大きな楽しさをもっていれば、 よほどのことでないかぎり、大して気にもならず、たちまち忘れ去ってしまう。
この楽しさは、幸福につながるものである。
…現在、幸福である。
…現在は、まだ必ずしも幸福といえないが、将来は幸福になれることを確信している。
…将来においても確信はないが、しかし、いつかは幸福になれることを希望し、期待している。
このように、人により異なるにしても、「幸福」というものがあればこそ、私たちが生きるための力を得ることができる。
幸福につながる楽しさがあれば、私たちの生活は特にそのための努力をしなくても、ひとりでに推進される。
これが人間の生命を保持するための大きなエネルギーとなっている。

人間は合理的に生きている

「生命を探る」より

細胞の健全ということは、細胞の収縮作用がしっかりしているということであり、これが生命の根源である。
細胞に力があれば、疲れるということがない。
疲れてもすぐ治る。一晩寝れば、必ず治るように肉体はつくられている。
どんな空気の悪い所でも、細胞は、よく働いてくれる。
いい空気に合えば、もちろん、はつらつとするし、しっかりとした呼吸法によって、細胞を生き生きさせることができる。
いつでも肉体を新鮮に保つには、眠りと呼吸作用、そうして細胞の収縮運動のための体全体の自然運動を行うことである。
食べ物などは、何でも、よく噛んで、腹八分に食べさえすれば、おそらく病気をすることなどはないはずである。
それは、細胞によってつくられるものである。
現代のような、忙しい生活をしている時には、神経も疲れるが、まず細胞が疲れる。
人間は、気分転換するために、遊んだり食べたりして、さらに細胞を弱めてしまう。
気分転換するには、体を投げ出して、生かされているという状態になって、細胞の生命力から気分の転換をする。
体を投げ出して、生かされているという状態になることは、生命力をあらためる最高の気分転換である。
意識的な気分転換法と、肉体生命の根本から命を変えるということは、非常な違いがある。

これでよいと心で割り切る

「人間読本・自然生活法」より

誰の人生においても、様々な問題が起こってきますが、
すべて「これでよい。これがよい」と心で割り切ることができると、嫌だとか、困ったとか、辛い、悲しい、 苦しいなどと感じることがありません。
「仕方がない」と、すべてを割り切ってゆくことができれば、何も心を悩ますことがありません。
すべて「これでよい。これがよい」と、割り切って先へ進んでゆく。
常に積極的に、元気に、愉快に、割り切って、人生の道を歩いてゆきたいものです。

明朗闊達な生活になる

「人間読本・自然生活法」より

気づまり、心配性、陰気、萎縮、消極、臆病、引っ込み思案、劣等感、抑圧などは、老化を加速させるので、要注意です。
すべて自己意識過剰から出るものゆえ、常に伸び伸びした心、すなわち自然の精神で、 明朗めいろう闊達かったつに生活することです。
喜びを食べて生きましょう
希望を食べて歩きましょう
楽しさを食べて進みましょう
善を食べて徳を高めましょう
美を食べて表現しましょう
愛を食べて情操を高めましょう
光を食べて力を蓄えましょう
闇を食べて命を養いましょう
真理を食べて賢くなりましょう
自然を食べて長生きしましょう

命は肉体である

「人間読本・人間を知る」より

人間は、たいていの人が、思いもかけぬ錯覚に陥っています。
生命とは何か。
命が大切ということは知っていますが、命とは肉体である、ということをはっきり知っている人が少ないのです。
肉体を愛護せよと言えば、ものぐさをして、肉体を働かさないで、遊ばせておくなどということは、大錯覚です。
肉体がつくられ、生かされている命の元であって、そこに感覚というものがあります。
また、働きのためのエネルギーというものがあります。
肉体に、一番必要なものは、感覚とエネルギーです。
精神、智恵、知識などというものは、それから発生します

心は人間を誤らしめる

「人間読本・人間を知る」より

一番、誤りを犯しているのは、心というものを作ったことです。
人間は、誰も心を持っているけれども、人間の作った心は、社会的なものであって、人間をあやまらしめ、人間をよくするものではないのです。
せめて、心というならば、精神という形で、意識を正常なものとしておかねばならないのです。
人間の意識というものには、自我性の意識、貪欲な意識、我がまま勝手な意識というような、心的意識が多いものです。
これに警戒しないと、自分で自分を悪くし、弱くし、損をし、不幸にしてしまうのです。
それは、人間心と称する、社会性の意識のことですから、その自我性の意識、私が私がという、自分本位の我がまま意識を、警戒せねばならないのです。

目に見える肉体は、目に見えない世界に通ず

「人間読本・人間を知る」より

肉体には、意識があるように思うけれども、肉体の持つものは、感覚です。
暑い、寒い、痛い、痒い、というような感覚から、目に見えない世界に発生することも、勘で分かるのです。
感覚という、目に見えない世界に行くのが、肉体の特徴です。

目に見えない意識・精神というようなものは、目に見える世界に行くようにつくられているから、面白いことです。
目に見えない精神・意識・感覚というものは、目に見える世界を知ろうとし、
目に見える肉体というものは、目に見えない世界に通ずる力を持っています。
この事実を教える人がいませんが、これを知っただけでも、非常に利益をするから、この言葉を知っておいていただきたいものです。

肉体は、目に見える肉体でありながら、目に見えない世界を感覚する力を持っています。
それに反して、目に見えない肉体の中にある意識的なものは、目に見える世界を目的とし、あれが欲しいの、これが欲しいのと、いろいろなことを考えたり、したりします。

これは、精神・意識・心という、目に見えない肉体の中に巣を食っている、一つの力であるということを、よく聞き分け、思い分けて、心に油断するなと、
昔から、人はしきりに、自分の心に自分が警戒してきたのです。
おかしいようなことですが、本当なので、心というものに油断してはならないのです。

人は心を尊んで、肉体をいやしむ癖がありますが、とんでもないことです
肉体こそ生命の根本です。
働きをなすのは肉体です。
肉体で働けば、健康健全賢明になり、運命もよくなっていくのです。

自然とともに

「気の幸福論」より

人間が自然のなかに、自然と一体となって生きているからには
日常の生活すべてに、なるべく自然なものを取り入れ
自然とともに生きることが望ましい
自然にいる
自然に歩く
自然に寝る
自然な食物を食べる
自然な着物を着る
自然の日光を浴し、自然の清水を飲む
自然の植物にふれ、自然の動物に親しむ
自然なものを見て、自然なものを聞く
自然な無理のない考え方をし、自然のなりゆきにことさら逆らわない
ひと言でいえば、自然に素直にしたがい
自然に反するものは、できるだけ避けようということである。

自然に帰れ

「気の心理学」より

自然に帰れ
自然は生きている
自然とは、生命のことである
木にも、土にも、石にも、生命があり、力がある
動くものと、動かぬものとがあり、秩序がある
自然にも心があり、これを法則という
人間にも心があり、これを意識という
自然の法則にしたがえば、益となり、功をなす
人間の意識にしたがえば、害となり、罪をつくる
人間が自然の心を心とすれば、それは精神である
人間が人間の心を心とすれば、それは人間心である
精神と人間心の違いに、なぜ気付かぬか、いつ気付くのか
人間はそれまでは不幸であり、いつまでたっても不和は去らない
人間は自然世界から創られた自然人である
胎生10ヵ月、人生100年ないし120年、これことごとく天寿
その生命は宇宙から与えられた
人間は宇宙人である
その上の自己、その中の自己
人間よ、自然に帰れ

さあ朝が来た

「人間全書・運命を開く」より

さあ、朝が来た
体をゆっくり伸ばそう
静かに呼吸を始める
体が呼吸をしている
体中が深い呼吸をしている
見える世界と見えない世界がつながり始めた
他力と自力が1つになる
今、宇宙の中にいる
宇宙と1つになった
宇宙になった
宇宙の美しさがわかる
宇宙の楽しさがわかる
この肉体も楽しい
すべてが、この上なく楽しい
ああ、幸せだなあ
これが幸福というものか
そうだ、これが幸福というものだ

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